親と子

 親と子の話の噛み合わなさはどうしようもないものだ。

もはや血の繋がりがない方が納得できると言いたくなるほどに。

それほどに親と子は互いを傷つけ合う。周りから見れば文字通りそれは地獄である。

 

先日あるセミナーに参加した。それは引きこもりの当事者やその親、不登校の子供や青年の集まるセミナーである。

その中でセミナーを開いた団体の代表の言った一言は印象的だった。

「あなたたちにとって家族とは百害あって一利なし」

 

酷いと思うかもしれないが、正直に言ってそうだと思う。

家族愛に心が和まないかと言われるとそんなことは全くない。むしろ素晴らしいことだと思う。

親兄弟みんな仲が良いという所もあって当たり前だと思う。

しかし、家族愛があるからこそ親と子は互いを心底憎み合う。

 

そして、互いを引っかき合いながらその関係を失くすことに恐怖している。

罵詈雑言の裏に理解して欲しいというどうしようもない気持ちを抱えている。

「お願いだから分かって。」「正気に戻って。」「自分はこう思ってる。伝わって。」

初詣で手を合わせる時よりも人が真剣に祈っているのは喧嘩した時である。

 

どんな人でも家族と対峙した時には子供に戻って心にもないことを喋ってしまう。

これは誰も見たくもない真実かもしれない。

そして、家族ではないものでしかその間に入ることは不可能である。

 

「風通しの悪さ」これもまた別のセミナーで聞いた言葉である。

家族、ある意味「家」というのは非常に風通しの悪いものである。

実は「風通しを良くする」以外で家族に出来ることは、出来ない事の方がずっと多いのである。

 

そして、加えて「家族会議」という文化は、説明的に言えば不安の払しょくである。

親の「子供のことが分からない」という不安を会議を通して子供に責任を押し付ける催し物である。

「お前が話さないからだ」「拒絶しているからだ」「怒っているからだ」

親は子を産む前の恐怖を憶えている。そしてそれをぶつける先は当事者、生まれた子供である。

 

これは言い過ぎかもしれないが、人間の一番の不幸とはこの世に生まれたことである。

暗すぎるのは承知だが、もし生まれない決断をしたのなら賢明だと思う。

そして、親との関わりは与えられるものも多いが奪われるものも同時に多い。

 

 

 

ぼくにわたしに耳を傾けて

 今日は特別ブルーなわけではないが、いつも頭に引っ掛かって取れないものを書きたいと思う。

それは「人と話しても意味がない」というものである。

以前にもこれと似たようなことを書いてたが、今回は体験よりも自分の感情を含めて書きたいと思う。

 

「人と話しても意味がない」というのは、自分の感情から言えば、「自分と他人は決まりきった内容のやり取りをしているだけで、その会話が記号でも数字でも何も変わりのないものだから、言葉で表現すること、口を開くことはすごく無意味なことだ」というものである。

 

これは万人がそうだという訳ではなくて、あくまで自分自身の感情であるし、だったら自分自身を表現すればよいと思うのが普通だと思う。

自分もそれに賛成である。ではなぜ自分はそうしないのだろう。

解決策はもう見つかっているのになぜか足が動かない。何より安心できない。

 

自分自身を表現することは、「自分はどう思っているのか」という部分からでも始められる。

何が好き、嫌い、これが許せない、これに心奪われている。

実際、人との会話の中でこれが欠けている人は社会の中に思ったより居ると思う。

 

他の人のことは分からないが、自分は「相手は自分に興味がない」と思っている。

言い換えれば、「愛されていない」ということである。

「自分のことを知りたいとも聞きたいとも思われてない。」

「何より自分が口を閉じて相槌を打っていれば相手は幸せそうだ。」

少なくとも人と会話している時、自分はそう思っている。

 

これがなぜ「自分を表現せず、人との会話を無意味に思っているか」の理由だと思う。

正直に言えば、自分はいつもどこか胸が肌寒い、厚いジャンパーを羽織っていても、胸の部分だけ、服に穴が開いているような、そんな気分になる。

こんなことをしていてもきっと幸せになどならないだろう。こんな無駄なことに時間を使って将来自分は嘆くことになるかもしれない。

 

必要なのは考えるのをやめることだ。そうすれば全てが水面に浮かぶようにふわふわと流れていく。

自分の感覚も、寂しさも、憂鬱も苦しみも乗り越えるべき障害も。

そうすると生きる死人になれる。

 

一度、ふと大学の帰りに思ったことがある。今いる自分はまるで「歩く水風船」のようだと。

水を飲んで膨らんだ腹を抱えて学校へと向かい、そしてまた、家に帰る。

自分の身体を無機物だと思ってしまうほどの寂寥感は人として少し惨めかもしれない。

 

最後は少し言い過ぎだが、自分を表現するのをやめていると意外と簡単に人は自分を見失う。

感覚が鈍くなって要らないものにばかりに神経質になって、必要なものにピントが合わなくなる。

起きているのが苦痛で、休みの日なのに睡眠薬を飲んで少しでも長く眠ろうなんて思わないためにも、早く目を覚まそうと思う今日だった。

 

 

 

時代は巡る?

 今日はあるゲームについて書きたい。それは『Watch Dogs Legion』と言うゲームである。

Watch Dogs Legion』(以下、Legion)は『Watch Dogs』シリーズの三作品目の作品で、2年ほど前に発売されたゲームタイトルである。

なぜそのゲームについて書きたいかと言うと、最近このゲームのDLCがセールになり、購入してプレイしたことが一つ関係している。

 

そもそも、自分は第一作目の『Watch Dogs』のファンで、先ほどのDLCというのは過去作の登場人物が再登場するということでそれを目的に購入した。

自分のお気に入りのキャラクターが出るということで楽しみだったが、結果は1時間ほどでやめてしまった。

なぜなら Legion自体が自分の中で最も嫌いなゲームの一つであるからである。

 

Legionはそれまでの過去作とは違い、プレイアブルキャラクターを市民とすることでこれまでのゲームシステムを革新したことが特徴の一つでそれについて賛否両論あった。

しかし、自分はそれよりもこのゲームのUIや全体的なバランスの部分で既に壊滅的に失望していた。

イギリスを舞台に変えて、物語もそこに則した権力への反発などの背景を含んだはずが肝心のゲームシステムと噛み合っておらず、ゲーム全体がストレスフルだった。

 

今までの(特に一作目の)Watch Dogsでは主人公の主観的な視点からゲームの世界観を客観的に見ることが出来ていて、加えてアクションやUIなどもゲームの特徴と関連していて、だからこそとても作りこみと情熱を感じた。

 

自分の中ではきっと自分と同様の意見が多いと思っていたが、新規のプレイヤーの人などには好評で、ゲームの評価はとても低いとは言えないものになっている。

もしかすると、今、世間の人たちの求めているゲーム像は少し前とは違っているのかもしれないと思い始めている。

美麗なグラフィック、強さを数値化したレベルシステム、体力を視覚化したバトルシステム、キャラのコスメテックアイテムガチャ/課金システムなどそれはもうゲームの世界観とは別に一つの標準装備のようなものになっているのかもしれない。

 

ゲームをした時の「面白い」という言葉はこの先変わらないだろうが、この言葉の中身は少しずつ変わり、10年もすれば自分は理解することは難しくなるだろうと思う。

だからこそ、「これが面白かった」、「こんな面白いものはなかった!」という声は遺しておくべきだと自分は思うようになった。

先の未来で「自分だけが面白いと思えないのだろうか」という人が出てきた時、きっと遺した声に感応してくれると思う。

そうすれば、「面白い」というものは時代を巡り、また同じところに帰ってくれると勝手に期待している。

 

だから自分は自分の「これが面白かった!」という声を残しておきたいと思う。

 『Watch Dogs』(第一作目)は面白かった!何よりも孤独な主人公(エイデン・ピアース)の物語にすごく感動した。時にはこのゲームのテーマをはみ出して、一人の人間の正義について問われるようなダークヒーローの哲学も自分はそこから感じ取ることが出来る作品だった。アクションも操作性も世界観もスタイリッシュでダークでインタラクティブで、初めてトレイラーを見た時の興奮はよく覚えている。今までプレイした中でも大好きな作品の一つだ。

 

元気がない時に

落ち込む、凹む、ブルーになる、というのは一瞬の煌めきと同じであるから一つ一つ気に留めておくのは馬鹿っぽいかもしれないが、今回は一度書いてみたいと思う。

 

何となくイラつくとか何もかもうまくいかないとか不安で仕方がないというのは、自分の中でただ過ぎ去っていくものだと思う。

しかし、元気がないというのは何か心の灯が少し小さくなったような、ただ強い風に吹かれて火が揺れて小さくなるのとは異なってもっと致命的なことだと思う。

 

元気がないというのは苛立ち、不安、孤独、そういったものでやる気が出ないのとは違って、やる理由もある、実際にやればできる、でも楽しくないということだと思う。

楽しくないというのはわくわくしないということで、わくわくするというのは憧れるということでもあると思う。

 

自分の好きなことにも、追求したいことにも手が付かない、手がついてもまるで心がそこにないような、自分の目の前にあるのに3歩、4歩離れたところにあるようなそんな心の在り様を元気がないと自分は思っている。

 

元気がないと生きている実感はそこにない。快楽も興奮も不幸も神経過敏というのも通り越して、凄く静かであるように思えて雑多で駅のホームに自分の心が置き去りにされているようでもある。

 

例えば、夜中に自分はたまに散歩をする。夜は素晴らしい。人っ子一人いない、暗闇に包まれている、それも事実である。しかし何よりも静かなのである。突き刺さるような静けさなのである。それこそが夜の素晴らしさである。

 

元気のない状態、状況の静けさと夜の静けさはまるで違う。

だから自分はそれが異質で致命的であると区別できる。

長くなったが自分の中で元気がないということが心に居場所を作ってしまっているという話だった。

 

好きなことについて

今日は、最近ブルーなことばかり考えてしまうので好きなことについてでも語りたい。

好きなことについて語るのは何よりも気持ちの良いものだ。

 

さて、好きなことと言ってもざっくりし過ぎているので、具体的に言うとそれはある映画である。

その映画は『グッドウィルハンティング』という映画である。

(出典:Good Will Hunting | Film-Rezensionen.de ©Miramax)

 

グッドウィルハンティング』は分かり易く言えば、孤児で粗暴な主人公ウィル(マット・デイモン)と妻を亡くした心理学者ショーン(ロビン・ウィリアムズ)との交流が描かれている作品で、『グッドウィルハンティング』と検索すると主にこの二人のイメージが多く出てくる。

 

しかし、個人的にこの映画の素晴らしさはこの二人だけで成立するものではないと思う。チャッキー(ウィルの友達)やランボー(数学教授)というこの物語に必要不可欠な脇役がいることで物語は時に示唆的で、ドラマという言葉一つでは説明できない奥深さを持っている。

 

自分がこの作品に出会ったのは高校生の時だった。シンプルに言えば自分の高校生活は楽しくなかった。その中でこの作品を見た時はすごく衝撃を受けた。一生忘れられないだろうと思った。自分の心にショーンの微笑みが、セリフ一つ一つが、傷のように刻みつけられたある意味でトラウマ的な体験だった。

(出典:Good Will Hunting - Official Site - Miramax©Miramax)

 

ロビン・ウィリアムズが亡くなってから来年で10年になる。自分がこの作品と出会った時にはもうロビン・ウィリアムズは居なかった。大好きになった瞬間にもうその人は既にいなかったのだった。しかしこういう体験はだれしも人生で一回は味わうものだと思う。

 

もう既にいない人のことを知り、尊敬し、深く知りたいと思う。そしてなぜか故人と巡り合うという体験はすごく多くのことを教えてくれる。少し前に止まった時間が今生きている自分に巡ってくるというのは少し感動的でもある。

 

先日、アマプラで久しぶりに見返してみた。やはり初めて見た時とは印象が違った。それまでは「この場面にしびれた」とか、「このセリフが」とか印象的な部分ばかり語っていたけれど、その時は映画を観終わってやっと「やっぱり素晴らしい映画だ」と感想が言えた。ショーンの父親のような微笑み、チャッキーという親友(ショーンには家族だと言われていたけど自分は親友だと思っている)、それだけでも自分は心が満ちるけれど、一つの物語として、世界として見た時にも全く色あせない温かな鮮やかさのある作品だった。

ここには自分がいない

 人の中にいて本当に虚しく悲しいと思うことは自分がこの人たち、この世界の中に一人だと感じることだ。

例えば、人の中にいて、この人は自分と同じかもしれないという勘違いというか、思い込みというか他人の中に自分を見るということが少なからずあると思う。

しかし、自分にはなぜかこの感覚がここ5年くらいの間、自分を通り過ぎていくように思える。

 

自分がこの世界の一部だと感じる時は、世界と合一したという何か充足感に満ち溢れる。

しかし、自分の感じるそれは、世界の中にいるというよりも世界で独りぼっちだと感じる。

何よりも人肌恋しい。取り残されてしまった。取り除かれた。そう思う。

 

余談だが、自分には10年くらい理解できなかったゲームのセリフがある。

『未来を創ることと、過去を語り伝えることは同じなんだ』

このセリフが伝えたかったこととズレてしまっているかもしれない。

しかし、自分がひどりぼっちだと思った時、このセリフが浮かぶ、そしてこう思う。

自分と同じ軌跡をたどった人の歴史がないこの世界の中で、自分自身が生きていく未来が想像出来ない。自分には未来がないんだ。だからこそ過去を語り伝えることが未来を創るのではないか。

 

と、勝手にそう思い込んでいる。

きっとそう思う人はたくさんいる。自分は孤独の世界を生きているのだと。

孤独な人同士はお互いが透明人間になる。場違いな賑わいだけに視線を注いで、お互いに目を合わせることすらない。本当に孤独な存在だと思う。

そんな時、何に目を向けたらいいか。分かったら是非おしえてほしいと思う。

自分の感性が鈍化する

 自分の中で感性とはモノに巡り合う才能だと勝手に思い込んでいて、最近それが鈍化してきているように感じている。

鈍化して何が悪いかと言えば自分自身がなくなってしまうような気がしてしまうことだ。

感性は個人的に自分達が最も嫉妬しやすくもあれば、尊敬される才能でもあると思う。

 

感性はまさに自分が今感じていることであって自分自身でもあるから、惰性で出てきたような言葉では自分を感じられない。

だからこそ、感性を発揮するときは他人から見ればそれは発揮した本人自体だと思われて、才能に嫉妬するのではなく、人として嫉妬されてしまう。

 

そのような感性が自分の中で鈍化していくのは、何か老いていくような気分なのかもしれない。

鈍くなることは便利なのかもしれないが、それ以上に間違いなく退屈なことでもある。

そして、その巡り合いという才能がないのは自分の人生が鮮やかさを失ったように思えてしまう。

 

感性が鈍ってしまうこと以上にそれ自体に興味が薄れてしまうのはもっと腹立たしい。

感性が鈍ってしまうのは自分の中で、生きる上での根源的な苦しみが薄れたことも関係している。

その根源的な苦しみというのは孤独である。

 

自分は人の集まりの中でどこここに所属していると思うことがあまりない。

例え歓迎されていても、自分がここにいることに漠然と疑問に思うことが多々ある。

だからこそ孤独というのが根源的な苦しみだった。

 

しかし、その孤独が少し薄れただけで自分の感性はすぐに萎えてしまったのだ。

それは何よりも哀しかった。獲得したわけでも自分に宿ったわけでもないその感性は容易く、自分の体を離れていってしまうこと。

先天的な才能ではなく、その才能が借り物だった自分を心底無力な人間だと卑下した。

 

感性は絶対に失ってはいけないという危機感があるのに、つかの間の悦楽に自分は浸って耳を貸そうとしない。

なんて愚かで向こう見ずなんだろうと本当に思う。

なぜ気を抜いてしまうのだろう。不安に生きようとは思っていないが、安心して生きていこうと思うのは自分には恐怖に感じる。