日記として書いてみる4

 今日もひとつ日記的なものを書きたいと思う。

今回は今日あったことも交えながら思ったことをつらつら書いていこうと思う。

 

本日は連休だというのに家でだらだら、レトロゲームを触っていた。

レトロゲームの粗い画質をHDMIに変換するケーブルを注文して丁度今日届いたのだ。

そんなわけで起きてすぐイスに座ってテレビと、にらめっこしていた。

 

そんな中、友達からゲームの誘いが来たが、何だか嫌気が差してグループごと抜けてしまった。

相手からすれば「何やってるんだコイツは?」という感じだろうが、

何だか今日はいつもと違い、スパッと大胆なことをしてしまう日だった。

 

そもそも、自分は友達がいるのに時折、孤独を感じることがあった。

人肌恋しさというよりも、共に自分が感動したものに誰かが感動しているというような、

合唱をした時、声の感触は違っても共に歌っていると分かるような、

大雑把だけど繋がっている、重なっているという感覚が居所を失くしたようだった。

 

何だか気取った言い方だが、実際、そんな経験はないだろうか。

何か自分の中の灯りと他人の灯りがくっついて少し大きな炎になったような

共に燃え上がるような薄い熱狂に包まれる経験が失われてしまうという。

 

みんな誰しも孤独になりうるし、実際に孤独な人もいるだろうが、

そんな人は心のどこかで、指を指されることを熱望していると思う。

「君!君!君だよ君!君のことを呼んでいるんだよ!」と

 

自分はたまに想像する、「君は何に興味があるの?君の大事だと思うことを知りたい」

知ってもらうこと、チヤホヤされるということ。

それは寂しく生きてる人が色々な思索を重ねながら手繰り寄せようとしているもの。

 

少なくとも自分はそんな人だと思う。

今日は特に紹介するものもないのでこれでおしまい。

 

 

今週のお題「名作」

今週のお題「名作」

 

 今日はお題を借りながら日記も兼ねてひとつ書いてみたいと思う。

さっそく、今週のお題「名作」に入ると、時期にもよると思うが、

今の自分の中の「名作」は、鬼滅の刃かなと思う。

(出典:鬼滅の刃 1/吾峠 呼世晴 | 集英社 ― SHUEISHA ―)

 

といっても自分は『鬼滅の刃』のコアなファンではないので胸を張って言える立場には到底いないし、自分が言う必要もなく名作なのだが、

単純に、漫画で泣いたという経験が人生で初めてで、その漫画が『鬼滅の刃』だった。

 

自分程度が『鬼滅の刃』の素晴らしさを語ることはとても出来ないが、

個人的に印象的なのは炭治郎含め、多くの鬼殺隊員が人命を救うため/鬼を殺すため前提として「自らの命を懸ける」ことが当然のようにあることだった。

 

それはある種「ヒーロー」というものにはそれは付き物だと言ってしまえばそうだが、

それをお館様とさえ呼ばれる産屋敷すら共有しているのは衝撃的だった。

そのような視点から「鬼殺隊」を見ると、「鬼殺隊」には、人命を救う組織としては、恐ろしいような異質さを覚えたのが印象的だった。

 

そして、その中で描かれる美しいドラマに涙しながら読み進めていくというのが、

大半の人の『鬼滅の刃』に対しての経験であり、イメージでもあると勝手に思う。

 

自分が特に感涙したのは、兄弟ドラマ(不死川兄弟、継国兄弟)だった。

無限城辺りの話は、読むときに一呼吸必要で、「ふう、ふう」となってしまう。

 

それもあるからか、自分の好きなキャラクターは結局「縁壱さん」になった。

人気投票では「善逸」「炭治郎」が1位だったと聞いたが、

あまり人気のないキャラクターはグッズが少なそうで、欲しい人からすれば、悲しいだろうなと思った。

 

最後に余談だが、玄弥が阿弥陀経を唱えてるのを見て、ある日、電車に乗った時にドアに一番近い座席に寄りかかり、スマホで般若心経を調べて、ぶつぶつ呟いていると

自分が寄りかかっている座席の人が坊主頭なのに気づき、ふと、見てみるとお坊さんだったことがあり、「なんか巡り合ったな」と思ったことがあった。

 

今日はこれでおしまい。

 

 

 

 

 

日記として書いてみる3

 今日も先日の日記(のようなもの)に続いて、今日一日について書いてみる。

今日は半袖一枚でも過ごせるような暖かいというより少し暑い一日だった。

腕を出したくないからと薄手の上着を着ると汗が止まらなくなった。

 

さて、今日は朝から出かけようと自分のバイクのエンジンを掛けにいくと、

バイクが黄砂まみれになっていて、シートにこびりついた黄砂を朝から掃除して、その後、最寄り駅から電車に乗った。

 

電車に乗っていると、先週の夜、電車に乗っていた時に駆け込み乗車してきた人がいたことを思い出した。

それは2人組の男女でスーツを着ていたため、オフィスで働いているように見えた。

飛び込んできた勢いも凄かったが、挟まれるスピードも凄まじかったため、ドアの近くに立っていた自分には「ガツン!」という音がしたのが印象的だった。

 

そして、夜になり、帰路につくと週末ということもあり、晩酌しようとコンビニに寄った。

家族からのおつかいもあったため、それも一緒に買った。

そして家につき、晩酌しようと思うと家にあったお酒は底を尽きてしまっていた。

 

お酒がよかったが、結局、歩いて近所の自販機まで行き、レモンスカッシュを買った。

そのレスカは伊藤園の点々模様のものではなく、ただ「レモンスカッシュ」と書かれたどこか懐かしいデザインをしている復刻堂のものだった。

「レモンスカッシュ」、「懐かしい」、その2つからあるアニメを思い出した。

 

それは高校生の時に見たフリクリFLCL)」だった。

フリクリ」は2000年代の初めの頃に登場したと聞いたことがあるが、自分が目にしたのはそれよりもずっと後だった。

何よりそのビジュアルと第一話の冒頭のマミ美、ナオ太のセリフに圧倒された。

なぜだか分からないが圧倒された。全く言葉できない素晴らしいモノと出会ったと思った。

 

その期待通りフリクリは最後まで面白かった。

アニメ対して全く造詣の深くない自分でも恥ずかしくも感動した作品だった。

そして、この日記(みたいなもの)を書くときに使うPCの壁紙には「Never Knows Best」と書かれたものを設定したんだ

 

と、思い返した一日だった。

今日はこれでおしまい。

「Nothing amazing happens here. Everything is ordinary」

 

 

 

 

 

 

 

日記として書いてみる2

 今日も先日の日記(のようなもの)に続いて、今日一日について書いてみる。

今日は週末の春の陽気から一転して夏を思わせるような気温にさらされた。

個人的には寒い方が好きなので、もう少しだけ厚手の掛布団でも寝られたらいいと思っている。

 

さて、今日は朝から花粉症に侵され、頭に重りが付いた紐でもついているのかと思う程、頭のふらふらする朝だった。

それから日が落ちる頃には暑さも少し落ち着いていたが、薄手の上着には少し汗が付いて、快適さはあまりなかったくらいの気温だった。

 

そして帰り道に気になっていたファミマの抹茶スイーツを買って今日一日が終わった気がした。

購入した「抹茶大福」と「抹茶どらやき」は甘くておいしかった。

 

それから家でご飯を食べてのんびりしていると、社会の実情を映し出す、所謂「裏社会」をテーマとしたような動画が目についた。

貧困、性、暴力、欲、そういった目に張り付くような要素を通して世の中を見ると少し元気を失した。

自分の生きる世界には絶望が溢れていると思うと、当たり前かもしれないが元気がなくなる。

 

スキャンダルや噂などは、人の本質的な部分だと思って耳に入ることも度々あるが、

それを通して世の中を見た時に人は元気でいられるのかと疑問に思う。

反対に、自分の信じる信念を持つ人がこの世界にたくさんいると思うだけで、自分は少し生きる上で心強さのようなものを感られる。

 

だからこそ、元気がない時と言うのは、意外と世界が曇って見えているのではないかと思う。

逆に元気な時というのは、世界が自分の信じる形で見えて、文字通り「心が晴れている」状態だと思う。

 

と、なんとなく思う一日だった。

 

 そして、今日の日記は、電車の中で久しぶりに思い返した映画『エレファント (Elephant) 』について書いて終わりにしたい。

(出典:Alicia Miles and John Robinson in Elephant by Gus Van Sant - Festival de Cannes (festival-cannes.com)© HBO)

 

『エレファント (Elephant)』は、以前に好きな映画の部分で書いたグッドウィルハンティング (Good Will Hunting)』と同じガス・ヴァン・サントが監督した作品である。

物語はオレゴン州ポートランドにある高校を舞台としてそこで起きる銃乱射事件を描いている。

 

この作品はアメリカで起きたコロンバイン高校銃乱射事件をテーマにしたと言われているが、自分がその事件について知ったのは、中学生の時に聞いたある楽曲で、

それは「Foster The People」『Pumped Up Kicks』という曲だった。

youtu.be

この曲でコロンバイン高校の事件について知り、その後に『エレファント』という映画を知った。

 

『エレファント』の中では非常に淡々と高校生たちの日常がほぼカットなく、映し出され、この後に起きる凄惨な事件を前に、見ている側は緊張感に包まれる。

そんな描き方に個人的にはすごく印象的な作品だと思ったが、終盤までそれが淡々と続き、最後には映画としての明確なメッセージを感じられないまま、幕を閉じる。

 

そんな凄惨さと曖昧さの中で自分は困惑してしまったが、この映画の解説やレビューを見てみると自分がそう感じたことは間違いではなかったと安心できた。

それほどに自分の中ではモヤモヤとする映画でもあったのだった。

 

加えて、この映画が個人的に印象的な理由は、映画の冒頭、また載せた画像にも映っている金髪の男の子の顔立ち自分の兄にとても良く似ているためだった。

自分の兄は背が高く、スラっとした印象で、自分にとっては謎めいていて、かつ、素行もあまり良いと言えず、あまり話すこともなかったため、自分は兄のことをよく知らない。

 

しかし、家族に兄の事を又聞きする限り、彼自体苦しんでいたようで、それが、映画の男の子を見る度に想起されるのである。

そんな意外な思い出もある映画だったと今日思い出した。

www.youtube.com

今日はこれでおしまい。

『エレファント (Elephant)』 『コンビニ抹茶スイーツ』

 

 

 

 

日記として書いてみる

(出典:Asu ni mukatte ute! (1969) (imdb.com)© 1969 20th Century Fox)

 

 このブログに投稿するのは久しぶりで突然だが、今日からがらりと雰囲気を変えて、日記を書いてみようと思う。

今日は友人とお昼ご飯を食べに行きがてら、午後から近所を少し散歩してきた。

 

世間話や馬鹿話をしながら歩くのは楽しく、心が少し癒やされたようだった。

半袖でも十分な暖かさと満開の桜は、さながら春が肌身に感じられた。

 

お昼は結局ラーメン屋に決め、自分はラーメンとチャーシュー丼を頼み、少し食べ過ぎで、膨れたお腹を抱えるようにして夕方帰ってきた。

そして、今、偶然、映画『明日に向かって撃て!』の挿入歌『雨にぬれても』をYouTubeで聴き、何となく今日一日を振り返ってみる気分になった。

 

先述した映画内で出てきた『雨にぬれても』は自分の中で聴くと映画の内容もあって少し悲しい気分になる曲だった。

しかし、今日の春らしい暖かさと桜の風景がその曲と一緒に頭に流れると、少し悲しい気持ちにもなるからか、映画さながらの「青春」的な気持ちになった。

それもあってか、今日一日が脳裏に浮かんできたのでついでに日記を書こうと思った。

 

最後に映画の感想について少し書きたい。

明日に向かって撃て!』は自分のような若者にさえ、少し衝撃を与えた作品で、初めて見た時に乏しい感性の自分でも、面白いなと思った。

無法者たちの時代が終わっていく中で取り残されていく、ブッチとサンダンスの二人の姿は、時代の全く違う今の若者の心にも通じる生き様として描かれ、見終わった後には自分自身がケアされたような気さえした作品だった。

 

今日はこれでおしまい。

明日に向かって撃て!』『雨にぬれても』

 

 

 

 

 

他人への想像力

 高校生くらいの時にふと「病んで(い)る」という言葉を聞いて嫌悪した記憶がある。

そのくらいの頃はくだらないことに神経質で何も考えず、馬鹿みたいに騒いでいたが、

貧しい感性でも感じられたその言葉は知らぬ間に周囲に漂い、最後には耳に入ってきたのだった。

 

初めは顔見知りから、次は友達とじわじわと自分に忍び寄ってきた。

その気持ちの悪い言葉は具体的に何かを指す訳でもなく、そして言葉では表現できないモノのための表現でもまたなかった。

だからこそ、会話の中で唐突に出てくるそれは自分の「言っていること」の状況を何も含めないまま、表現としてなぜか自分以外の人の心に居ついた。

 

馬鹿な高校生ながらに時々落ち込んでもいた自分にとってその残酷な言葉は黒板に爪を立てるように不快な音を響かせてきた。

「あいつは、私は、僕は今病んでる」「お前病んでんの?」

今でこそ何も感じないが、あまりにもその言葉が蔓延ったこと、そしてあまりにもぐちゃぐちゃにその言葉が使われたことで自分は勝手に疲弊してしまっていた。

 

そして、今になって何が嫌だったのかを考えた時に、言葉が乱れてるとかそれが浅はかだったとかそういうことではなくて、

結局、自分達の他人への想像力のなさ加減にただただムカついていたのだと思う。

そもそも、その頃によく言っていたのは「人をいちいちカテゴリ分けするのは気持ち悪い」だったが具体的何が嫌だったのかは今になるまで分かっていなかった。

 

自分も例外ではないが、時々自分がよく知りもしないことを一言で片づけてしまうことがある。

その対象が人だった場合にはそれは最悪かもしれない。

 

ある時、自分があまりにブルーなのでカウンセリングを受けると親に話すと、しばらくして母親から一枚の紙を手渡されて、

その紙には、自分(ごりら)がいつ頃にどう思い、何に思い悩んでいるかが、自分(ごりら)との対話なく、母親によって書かれていた。

 

自分がどう思い、どう感じたかはそれを受け止めた本人だけが語ることの出来るものなのだ。

 

想像力のなく相手のストーリーを理解するというのは相手を哀しませるのに効果てきめんである。

不思議なことに人というのは人生で悲しい目に遭うからなのか、自分ではなく周りが自然と変わっていった。

少し話をしただけでも深い同情が、会話の中で生まれることもあった。

 

 

 

 

 ここ二日程あまり元気がない。

何も食べたいとも思わないし、何かしたいとも思わない。

ただ夜が早く終わって、朝も早く過ぎて欲しいと思っている。

 

自分の心の中はこのことをあまり深刻に思ってはいない。

また始まったなと思うくらい。口内炎やニキビの類と同じように思っている。

それらと同じくなるべく早く消えて欲しいものだと思う。

 

眠りから目が覚めてもまったく心に彩りがないと全てに無関心になってしまう。

暇つぶしの間にも退屈で死んでしまいそうになる。

丸一日ベットに入ってその日の終わりだけを意識している。

 

習慣だけは生きているけど、生活はまるで死んでいるようなここ二日。

頭も働く、体も動く、感性もいつも通り、でも元気がない。

部屋にこもっていたくもない、面倒だけれど外に行きたい、でも何より眠りたい。

 

健やかに眠りたい。

眠りたくて歩いていてもベットが頭に浮かんでくる。

でも実際、部屋のベットに寝転んでもすぐには寝付けない。

 

寝付く過程はすごくストレスフルだけれど、眠りたくて布団に入る。

眠れなくてラジオを聞く、眠れなくてラジオが終わる。

寂しい、その時は本当に独りになったように思う。

 

そして気が付くと朝になっている。

また頭には眠りたいという気持ちが浮かぶ。

ずっと眠っていたい。もしかしたら起きておきたくないだけなのかもしれない。