2025/06/16 つぶやき

 今日はいつも通りバイトも終え、部屋でごろごろとYoutubeを見ていた。

すると、おすすめに新卒で就職が出来なかった同年代くらいの男性が自己紹介と共に、その経歴について話している動画が出てきた。

自分と同じような境遇の人物がYoutubeにいるんだなと、なんとなく見てみた。

 

動画は最初から最後まで簡潔にまとめられ、見やすい印象を抱いた。

自分の状況や思ったことなどを率直に述べていて、少し嫉妬するほど質の良いものだった。

しかし、同じような境遇であるのに、そこに共感と言ったものはあまり覚えなかった。

あくまで、同じ“ような”境遇であるからなのか、最後まで見ても感情移入するところはあまり無かった。

 

その動画を見終えると、そこには怒りにも似たような哀しさが残った。

このような感情は以前にも抱いた事がある。

それは引きこもりや就労支援を必要とする若者たちの集まるセミナーに出向いたときに、周りの人たちと一緒に活動をしていたのだが、どうしてか馴染めず、個人的に快適と言える状況ではなかった。

 

同じような境遇にいる人たちに心寄せる事ができないのは、自分とはやはり違う人間であるからだと思う。

同様の環境に置かれても、その人と自分が感じた事は違うということだと思う。

感性が違うというのは皆それぞれ違うものだが、自分はどうしてもその感性がズレていることに納得がいかない。

 

先ほどの動画の中ではカウンセリングについても取り上げれらており、どのような効果があって、それがどのような結果になったのか、素直に述べられており、

あるカウンセラーとの出会いなどについても感情を交えて話していたが、そこでも感情移入できなかった。

何度かカウンセリングを受けたことはあるが、これといって印象的だった出来事は今までない。

人に話して泣いたことも、本当に触れられたという経験も、カウンセリングにおいてはない(幸運にもそれ以外でならある)。

 

だからこそ、ある同じ境遇の人に対しても、以前の経験のように感覚してしまうという疎外感のようなものを今日は感じて、それについて消化できなかったので書こうと思った。

 

前回紹介した谷川俊太郎さんの詩にもあったが、「わたしがみんなと いきていけるように」という思いは必ずあるしかし、うまくいかないことがあまりに多い。それでもやはり、谷川さんの詩が心に残ったのは、「みんなといきていけるように」の前の一文には「どんなにそれが くるしくても」と書かれていたからである。

 

くるしくとも、やはり誰かとの繋がり、それを捨てきれない。

捨てたいというよりしっかりと向き合いたいということ。

 

また書きたいことがあったら書こうと思う。

 

おしまい

 

 

 

 

 

2025/5/29のつぶやき

今日もまたつぶやきを書きたい

 

今日はふとした時に、昔の荒んでいた時期の、特にはじめの頃の記憶を思い出した

 

誰にも助けてもらえなかった消化しきれない思いがあったことは明確なのに

それ以外の事は、うまく思い出せない事ばかりで

自分で経験したことすら、それも特に酷いものでも、

思い出せなくなってしまうのかと、

そんな状況に怒りすら感じた

 

どうして消化しきれない気持ちを抱えているのに、それを語り尽くすことができないんだろうと、嫌なモヤモヤに包まれた

出来る限り思い出したくないと確かに願ったけれど、それはやっと語れる機会すら、失ってしまうことだったのか

そんなことはやりきれない、あまりにやりきれない

 

ずっと抱えてきて、それも消滅し得ないもの

それが誰かに語ることも、ましてや自分に対して語ることも叶わないのだろうか

どれほどの人が悲しんできたのだろうか

 

あれほどショックだったことが、今は語る言葉すら紡ぐことができない

過去は過ぎ去ってしか行かないという言葉も耳にするが

なんだってその一言で片づけてしまえるのだろうか

 

たとえ、それが間違っていたとしても、納得することはないだろう

過ぎ去らない過去が頭を悩ましている人がどれほどいるだろう

その人たちを一瞥して、ただ「知らない」と吐き捨てることができるだろうか

 

その人たちは、語るための言葉をどれほど探しただろう

自分だけでなく、他の人の中にまで探しに行っただろう

ただひとつのことを語るために、これまで生きてきた言葉では足らなくなってしまったのだ

 

あるいは他の人が語る言葉にこそ、誰よりも耳を傾けているはずだろう

客観というより、主観によってその人により近づいて

自分の痛みを、他人の痛みに近づけて、共に痛んだろう

 

そんな人たちのことを思うと胸が辛くなる

その人たちは傷つきながら、苦しくとも他の人と生きることを望んだのだ

 

この間、NHKの「100分de名著」という番組で、谷川俊太郎さんが特集されていた

その中で紹介された谷川さんの詩に、こんなものがあった

「十二月」というものだ

 

 十二月

おかねでかえないものを わたしにください

てでさわれないものを わたしにください

かみさま もしもあなたがいらっしゃるなら

ほんとのきもちを わたしにください

どんなにそれが くるしくても

わたしがみんなと いきていけるように

 

 

どうしてかこの詩に惹かれた

やっと何かと連なって取り出すことができた

このようなことと繋がっていたとは思わず、ただ感動していたが

今日このように持ち出すことが出来て良かった

 

おしまい

 

 

 

 

 

 

2025/5/24のつぶやき

 ここで何かを書くのはもう昨年の12月ぶりになる。

何か書いて残すことをしていなかった訳ではないが、こちらとは書き方が少し異なったやり方で、別のサイトで継続していた。

 

なぜ今更戻ってきたのかは、今言ったようにこちらとは異なったものを書いて残してたので、今書きたいことの内容的には、こちら方が日記的にも書いてきたので、書きたいものと相性が良いと思ったので、再訪した。

 

さて、書きたい内容というのは、題名にも「つぶやき」と銘打ったように、大した話でもないのだが、ここ最近思った事なのだ。

 

自分はラジオを聴くのが趣味ではないが、週に何回か特定のものを聴いているのだが、よくラジオなどを聴いていると、ふとそれを聴きながら、別の事を思い出して、そのことに思いを巡らしている内に、今自分に必要な「言葉」が見つかったり、ぽっと生まれ出たりすることがあるのだが、最近は、その感覚というか体験が、すっぽり抜けて落ちてしまったように思うことだ。

 

それが最近の悩み(に近いもの)である。

 

誰にでもあることだと思うのだが、時々今必要な言葉を探すために、本を開いたり、曲を聴いたり、散歩してみたりする。気分転換とも言えるものかもしれない。そんな隙間を味わうことで、今の立ち位置や、心持ちというものを再確認するような時間が、なぜだが、ここのところ生まれないのだ。

 

「疲れたから休憩しよう」そんな時が特にチャンスなのに、ずっとそこに座ってしまって、「休憩したいのに、休憩できない…」という時間を感覚するというのを繰り返している。

 

これは一体何なのだろう。

 

休みたいのに休めない。物理的には休んでいるはずなのに。

そんなことに困っている。

イライラやモヤモヤもいつもより濃いように思う。

 

ある時は金曜日に家に帰ってきたのに、「あれ、今日は何曜日なんだろう」という感じで、金曜だと確認しても、その感覚が全く無かった。あの「金曜日、週末」という感覚が分からなくなっていた。

 

驚いてそれを一言でメモしていた

「今日は金曜日じゃない、ほっとすらしないんだから」

 

「ほっとする」これは大事なことだったんじゃなかろうか。

家に帰ってきたら「はあー、今日は布団にくるまって寝よう」それでいいはずなのに。

ほっとすることができない。

 

もしかしたら、しきりイライラしたり、不安に駆られるようなことがあれば、家に帰った時に、ほっとしているかを指標にすれば良いんじゃないかと思う。

 

それくらい「ほっとする」瞬間は蔑ろにできないものだと思う。

個人的に「ほっとする」ことは、「感動すること」と繋がっていると思う。

 

ほっとすることが無くなってから、何かに心動かされることもなくなったからだ。

 

そうなると、休む時間がかなり無味乾燥なものになる。暇つぶしも機能しなくなって、暇つぶしをしながら退屈するようになる。

そんなことにはならないほうが良いと思う。

 

今その抜け出し方を模索しているのだが、そのひとつがここに書いてみることでもあって、やってみると効果はありそうだが、明確にその効能の説明はできない。

 

とにかく、今日は最近の悩み(に近いもの)を書き出してみることが目的だったのだが、思ったより普段感じていたことが、繋がりをもって文になっていくのが、それもすらすらと続いていくのが、不思議な時間だった。

 

また何かこのことについての気づきだったり、同様にただひたすら書いてみたりするときには、またここに戻ってきたいと思う。

 

おしまい

 

日記18 エボシの台詞

 今日は久々に日記を書こうと思う。

今日は少し前にTSUTAYAで借りたもののけ姫を観て、ゆったりとした時間を過ごした。

TSUTAYAといっても宅配の方なので、直接店舗に出向く必要はなかったのだが、ネットで借りるというのも、案外、悪くないと思った。

といってもこれまで動画配信サービスが普及してからというもの、アプリ上でのレンタルはすぐその時に貸出がされて、それを期限までに「返す」というよりも期限が「切れる」という感覚の方が、今まで近いものだった。

一方、「ネットで借りて、自宅に届き、ポストに返却。」という流れは、その場で借りているが、家に届くのは数日かかるので、今までの「お金さえあれば借りられる」から「借りても届くまで時間が掛かる」というのが、思いの外、新鮮な感覚だった。

NetflixやPrime Videoの登場以前は、店舗に借りに行っていたが、その時はその場で借りることが出来るので、今回のような感覚はあまり無かったように思う。

ともかく、一番の目的であった「もののけ姫を観る」ということは果たしたのだが、それ以上に過程にあった、「TSUTAYA DISCASで映画を借りる」ということが、かなり新鮮な体験だったのだ。

 

そして、久しぶりに観た『もののけ姫』も、面白かった。

数週間前に、Youtubeでたまたま『もののけ姫』のアフレコ(アテレコ?)映像を見て、前にも一度見たことがあったが、それがきっかけにWikipediaなどで、設定や背景についての説明などを何となく見ているうちに、「実際にみてみよう」と思い、今日に至る。

実際観てみて、印象に残ったのは、作中でエボシがアシタカに対して言った、「賢(さか)しらにわずかな不運を見せびらかすな」という台詞だった。

(The Complicated Power of Princess Mononoke's Villain, Lady Eboshi)

これは、サンがタタラ場に単身で乗り込み、エボシの命を奪おうと、タタラ場の人たちに囲まれながらも、エボシに襲い掛かり、一騎打ちのような状態になっている所に、アシタカが強引に割り込み、剣を振り回す二人の腕を掴み、禍々しい呪いの姿をタタラ場の人々に見せ、「これ以上憎しみに身を委ねるな!」と言い放つ場面で、それに対してエボシが言ったのが、この「賢しらにわずかな不運を見せびらかすな、その右腕切り落としてやろう!」という台詞なのだが、自分はアシタカの言っていることは間違ったことではないと思うのに加えて、このエボシの台詞は、今まで聞き流していたなと思った。

「賢しらにわずかな不運を見せびらかすな、その右腕切り落としてやろう!」とは、どういった台詞なんだろうか。

呪いによってアシタカは寿命とは関係なく、死にゆく定めにある。なのにそれを「わずかな不運」と呼ぶのは、どういうことなのだろうかと思った。アシタカが右腕に受けた呪いは、エボシが放った石火矢が起点となっている訳なのに、自らのせいで死ぬ人が目の前にいながら、本人にその台詞を吐いたというのは、すごく興味深い場面だなと思わされた。

アシタカの言ったことが気に食わなかったのは、もちろんだが、それ以上に彼女があれだけ「弱い人」(不遇の扱いを受けたり、迫害されていた人)たちに寄り添えたというのは、彼女がその人たちの痛みを直に知っていた存在であったからだと思った。(エボシ自身も売られた過去があるそうです)そのため、「これ以上憎しみに身を委ねるな!」という正論を、どこから来たかもわからないような、たかだか呪いを受けて死ぬ“程度”のよそ者の小僧(アシタカ)に並べられたことに、いきり立って出たのがこの「賢しらにわずかな不運を見せびらかすな、その右腕切り落としてやろう!」という言葉なのだと思った。

自分たちは時々、正しさを押し付けられて逆上することが(少なくとも自分は)あるけれど、この場面はまさにそれが起きてるんじゃないかと自分は思う。エボシのあの台詞には「お前に何が分かる!」という気持ちが少しでも含まれているように思う。

このように思うと現実の社会で「弱い人」として扱われる人から見ても、エボシは手の届かないような存在ではなく、寧ろ、もっと近しい人なんだと思った。意外にも、この物語で弱い人に最も近しい人。そんな風に思う日だった。

ここまで感想を長々と書いてきたが、TSUTAYA DISCASで借りたときは一本50円(送料は別)で借りられたので、ナウシカも一緒に借りてみた。ナウシカも50円で借りられた。(送料は別)旧作だからだと思うが、どんな感じなのか気になる人はやってみるのも、手軽なんじゃないかなと勝手に思っている。

おしまい。

 

 

 

日記16 無価値な自分に

 今日はまた日記を書きたいと思う。

最近は季節に沿った気候になりつつあって、寒いときは厚手の靴下を履くようになった。

 

今日はなんだか自分自身が無価値に感じることがあった。

よくある、些細なことでミスをして、落ち込むというようなものに近い。

そんなときは美味しいものでも食べて、お酒を飲んで、寝て忘れてしまおうというのも、悪くない。

 

でも、なんだか今日はその「無価値である」という感覚について書きたくなった。

もっと言えば、その「無価値である」状態に、希望はないのだろうかと疑問に思ったからである。

 

はっきり言って自分は何の役にも立っていない。正直、誰かの苦労を減らしたり、労ったり、慰めたりもしていない。

しかし、自分は自分のことを責めようとは思わない。役に立たないことは、無価値かもしれないが、それは自分がこの世にいるべきかどうかとは、全く関係のないことだと思うからかもしれない。

 

確かに無価値でいることを他人は良しとしないかもしれない。おそらく居場所もないだろうと思う。理解されることもないと思う。他人のため息や、冷たい眼差しに心が死んでしまいそうになるかもしれない。しかし、それでも生きてはいけないという訳ではないと思う。

 

悪口を言われて傷ついたとしても、だからと言ってここにいてはいけない訳でもない。

居るという資格がある訳でもないが、逆に退場しなければいけないという訳ではない。

つまり、人間社会の規範は、人が決めたのだから、その一人である自分も、そのルールを自由に緩めたり、締めたり、あるいはそこから抜け出してもいいはずだと思う。

逆に抜けだせないのは自然が決めたルールである。誰でも知っていることであるが、生きるものは死ぬ。これはどうしようもないかも。

 

もちろん誰でも居場所は欲しい。自分だって欲しい。けれどそれに屈してしまえば、恐らく欲しいものは手に入らないと思う。

「二人でいるためには、一人で居られること」これはある本に書いてあったことだが、同じことを言っていると勝手に思っている。

「要らないからこそ持っていられる。」そんな感覚かもしれない。

 

無価値だと悲しんだ時と同時にその自分にも温かい眼差し(または愛)というのは、目が曇る前なら確かに見えるかもしれないし、それは表立ってもいないし、思いもよらないものかもしれない。

帰り道に見えるなんてこともない団地の明かりを見て圧倒されたり、駅近くの揚げ物屋さんで売っているハムカツを見て妙に安心したり。

その時にやっと人は胸に抱えてた悲しみや虚しさが表に出てきているんだと思う。意外とそんな感じだと思う。

 

結局言いたかったのは、たとえ、無価値で出来損ないの役立たずであっても、まだそこに希望はあると思いたいという気持ちと、その悲しさ、やるせなさに寄り添ってくれるものを発見できるということ、そして、それを自分という他人に子守唄のように聞かせたかった。

 

人は生きていると、心が尽きてしまいそうになることがある。寒空の中、まるで心の芯まで沁みるような冷たい風が吹きつけて、温かさというものが剝ぎ取られるとしか言いようのない気持ちになる。

そんな時、心の温かい人の温もりに触れられたらと必死に思うけれど、何日も下手をしたら何週間も何か月も凍えたまま過ごすことだってざらにある。

そうなった時、どう生きればいいか。温もりなくしてどう生きるか。他人の温もりを探し彷徨うか。自分の中に温もりがあると信じるか。

そんな感じのことを書こうとしていた今日だった。

 

 

 

 

 

日記17 夜11時という友

 今日はまた日記を書きたいと思う。

今日はまた寒暖差の激しい日で、突然上着が必要になるほど肌寒くなり、体調を崩さないか少し心配である。

 

今日は肌寒い風が吹く中、電車に乗っていつものように家へと帰ってきた。

お風呂に入って少し落ち着いてから、Netfflixで『ブレイキングバッド』を観てアイスを食べていた。

 

その後、夜が更けてから何となくココアが飲みたくなった。

マシュマロが入ったココア。飲み干した後しばらく置いておくと糖分が固まって、ガチガチになって洗いずらくなるココア。

それを飲みながら録画したNHKの番組を見ていた。

 

その番組は今まで4回ほど見直している番組で、当たり前だがいつも同じ内容なのだが、なぜだか、いつも観ている時よりすごく胸に刻まれた。

それはその番組自体が面白いということもあるが、この「夜更け」という「タイミング」は、いつもとは違い、なぜか内面にしまっていた深い悲しみが氷解するような機会を与えてくれる、心の許せる友のようだと思った。

ただすごいと思っていた言葉ひとつひとつが、過不足なく心の中に入ってくるようだった。

 

あの「夜更け」というタイミングは、それが奇跡的な瞬間であったという感想以外に、とても不思議なきっかけで、思わぬような体験へと導いてくれる時間でもあった。

「今だ!」というより、「少し様子を見てみようかな」くらいの熱量。ゴールに向かっていくというより、ただ当てもなく徘徊するような、偶発的に生まれた時間。

それは自分に非常に価値ある瞬間を与えてくれる機会だった。それも答えが届くわけではなく、味わいある瑞々しさのようなものが自分の中で生まれるようだった。

 

そんな夜11時「何をしても良い時間」にこそ、自分に響いてくるこの「夜更け」というタイミングについて書き残して置きたかった。

おしまい。

日記16

 今日はまた日記を書きたいと思う。

今日は前書きは省略したいと思う。

 

とにかく今日は何かあったわけでもないのに気分が落ち込んでいた。

時期的なものかもしれない。よくある季節の変わり目にある自律神経の不整というか不調のような気分の悪さ。

そんなありふれたものかもしれないが、今日だけに限ったことではなく、ここ一週間はそんな気分になることが多かった。

 

憂いを払しょくしようとカウンセリングも受けてみたが、何か違った。

実際自分が心の底に抱えている突っかかりを他人に告白するというのは、そんな容易なことではないと今更ながら身体で感じた。

喋りづらい訳でもなく、底の部分に焦点が当たらないようだった。話をズラしている訳でもなく、見えているけど見えていない。そんな印象だった。

 

いつも気が付かずにいるが、本当の所、自分は自分の心の内を吐露したいという思いを忘れていたのかもしれない。

なんだか自分の心の内を理解しようとすればするほど、本心からピントを外して、心の中を探求していたのかもしれない。

だからこそ、良い方向に進んでいると思いながらも、どこか心の中の虚しさを拭えなかったかもしれない。

 

自分の心を吐露しようと思えば、出てくるのは、こんなに落ち込む若者なんているのだろうか。そんな独りだという肌寒さみたいなもの。

そして、しこりのような爆弾を抱えた壊れた心を持った若者だと自分を描写している。

 

はっきり言えば、自分と同じような世代の人を見て、心の中に映るのは、「この人は自分と同じような体験を少しズレていても構わないからしているのだろうか」という一方的な祈りのようなものだ。

追い詰めて、追い詰めて、何度自殺しようと思ったことか、遺書まで書いたことが、この自分と同じ「若者」という括りで呼ばれる人と関係があると、自分が思えないばかりか、そうだと思われているのではと、自分はそう思っている。

睡眠薬を眺めて、夜を過ごしたことがあるのか?寝ることにではなく、次の日が来るということに対して、解決をしようと思ったことが人生の中であったのだろうかと、それでもまだ一括りの「若者」と呼ばれなければいけないのだろうか。

 

理解されないのは皆等しく感じているが、それに対面する場面が少ない程良いと思う。

この世の中に味方いないというだけで、どれだけ人が絶望するか。それは独りという素晴らしさを語る以前に、まるで世界との懸け橋が崩れていくようなものだ。

自分は一度、ポエムみたいだと言われたことがある。確かに言葉としては同じかもしれない。

 

しかし、その人の言う「ポエム」と自分の言う「ポエム」は全く違う。

そんなありきたりの予定調和をポエムしたのでは断じてない。

自分は自分をポエムにした。どこから取ってきた訳でもなく、それっぽいことを言いたい訳でもなく、人に対しての愛を書いた訳でもなく、自分を書いただけのことだった。

 

大学で独りになった時、自分は自分がおかしくなったと思った。なんでこんなに人との折り合いがつかないのだろうかと。

でも、話は単純だった。自分がおかしいから誰かと融和できるはずなどなかった。

自分と他人は違う。そんなことにすら気が付いていなかった、

 

大事なことは自分をごまかしても他人から理解されることなどないということだった。

それだけが今言いたいことだった。拗ねたり、卑屈な馬鹿になったり、愚痴を言うことより、それだけが心の中に見つけたかった。

これでやっと自分と話すことが出来た。いつも自分は本心を語るまで素直になれない。

 

若者として若者の悪口を言うが、今時、「他人と自分は違う」ということを言う人などいるだろうか。

または、「自分たちが守っている規範をどう乗り越えるかが苦しみから救ってくれる」ということ。

頭の良い人は分かるだろう。でも、頭の悪い自分のような人でこれを痛い程身に染みた人などいるだろうか。

 

「自分は本当にこれから生きていく上で、自分を重なり合わせられる人などいるのだろうか」という思いを、心臓が止まるような冷水を他人から浴びせられた人以外に、文字を超えて伝えられるだろうか。

「今まで関心を払っていなかったけど、本当はあの人は何を言おうとしていたんだろう」という思いも、軽々しく一括りにされる「若者」には、目を見て言えば通じると、あるいは、自分には分からない、理解することが出来ない思いがあることを、身体でわかる人など何人いるだろうか。

 

自分は、一見そんな悲しい思いを秘めているような顔をして、その一部分にすら接していないばかりか、無感覚に言葉を吐き出して、憂さを晴らす人を見た。

それが自分と同じ世代の「若者」なのだ。なんて声を掛けていいかも分からない。

その無関心がどれだけの数、自分の傷口に塩を塗ったか。知ってほしくもない。

 

人が傷ついている大抵は無関心だ。

人が同じものに感動していないからイラついているんじゃなく、その人の無関心に怒っているだけ。目の付け所が違くとも、同じ情熱で燃え上がる。

自分がイラつくのは、イラつくということに無関心であること。

はっきり言えて、自分も含めて言う若者とは、しょうもない。本当にしょうもない存在である。それだけは言っておきたい。