他人への想像力

 高校生くらいの時にふと「病んで(い)る」という言葉を聞いて嫌悪した記憶がある。

そのくらいの頃はくだらないことに神経質で何も考えず、馬鹿みたいに騒いでいたが、

貧しい感性でも感じられたその言葉は知らぬ間に周囲に漂い、最後には耳に入ってきたのだった。

 

初めは顔見知りから、次は友達とじわじわと自分に忍び寄ってきた。

その気持ちの悪い言葉は具体的に何かを指す訳でもなく、そして言葉では表現できないモノのための表現でもまたなかった。

だからこそ、会話の中で唐突に出てくるそれは自分の「言っていること」の状況を何も含めないまま、表現としてなぜか自分以外の人の心に居ついた。

 

馬鹿な高校生ながらに時々落ち込んでもいた自分にとってその残酷な言葉は黒板に爪を立てるように不快な音を響かせてきた。

「あいつは、私は、僕は今病んでる」「お前病んでんの?」

今でこそ何も感じないが、あまりにもその言葉が蔓延ったこと、そしてあまりにもぐちゃぐちゃにその言葉が使われたことで自分は勝手に疲弊してしまっていた。

 

そして、今になって何が嫌だったのかを考えた時に、言葉が乱れてるとかそれが浅はかだったとかそういうことではなくて、

結局、自分達の他人への想像力のなさ加減にただただムカついていたのだと思う。

そもそも、その頃によく言っていたのは「人をいちいちカテゴリ分けするのは気持ち悪い」だったが具体的何が嫌だったのかは今になるまで分かっていなかった。

 

自分も例外ではないが、時々自分がよく知りもしないことを一言で片づけてしまうことがある。

その対象が人だった場合にはそれは最悪かもしれない。

 

ある時、自分があまりにブルーなのでカウンセリングを受けると親に話すと、しばらくして母親から一枚の紙を手渡されて、

その紙には、自分(ごりら)がいつ頃にどう思い、何に思い悩んでいるかが、自分(ごりら)との対話なく、母親によって書かれていた。

 

自分がどう思い、どう感じたかはそれを受け止めた本人だけが語ることの出来るものなのだ。

 

想像力のなく相手のストーリーを理解するというのは相手を哀しませるのに効果てきめんである。

不思議なことに人というのは人生で悲しい目に遭うからなのか、自分ではなく周りが自然と変わっていった。

少し話をしただけでも深い同情が、会話の中で生まれることもあった。